昭和41年11月11日 朝の御理解



 朝晩の御祈念をさせて頂く時に、時にあの霊神様へご挨拶を申し上げる時に、一緒に祖先賛詞を奏上致します。その祖先賛詞の言葉の中に真心清らに、ね、又その私共の願いを思いを、御心も涼やかにと言う所がある。いわゆる氏子の心の真心清らなそれを、霊様どうぞ涼やかな心でお受け下さいと言われるならですね、こりゃあの神様に申し上げても同じだと思うんです。
 氏子の真心を、しかもその清めに清まらせた心で、思わせてもろうたり行わせてもろうたりさせて頂く、そんな事を神様が涼やかな心で、それを特にそれを受けて下さるのですね。そこでどうしても矢張りこの、神様の心に通うと言う事は、私共の心が先ず清まらなければならない、清らかな心を願わなければならないと言う事になるのですが、更に日々お互いがそういう清まる事に努めておるだろうか。
 清まるといえば、もう私20年も前だったでしょうかね。日田の堀尾先生のお話を頂いた時がある。あちらの御信者さんの中に、選挙運動に携わりましてね、選挙違反のために懲役にいかなければならない事になったんですね。それでそのその刑を受けなければならないために、まあ堀尾先生にその事のお取次ぎを願われてる。ある人の事なんかを願われたのでございましょう。堀尾先生が、○○さん刑務所にはなぁ、あ、清まりに行くとばいっち仰ってます。
 ○○さ、あん、刑務所へ行くのは清まりに行くのじゃとこう仰った。ほんと誰でもいっぺんは、こ、刑務所に行きなさらなければ清まらんごたるけど、ね、そこん所をひとつ本当に分からなければいけないと思う。もう一番これはんなら、ならいうなら四角四面のその牢屋の中でです、半年なり一年なるか知れませんけれども、自分の意思自分の思いという事は思い通りに、あのな出来ない状態。ね、そういういうなら不自由な生活をこれからさせられなければならない。
 それによって自分の罪に、罪を償うていかねばならない。ああもう何ヶ月したらもう何日したら出られる。ああシャバが恋しいと恐らく思うでしょう。ね、けれどもその堀尾先生の仰られたその真意というのはどこにあっただろうかと思う。○○さん、ね、刑務所へは清まりに行くとばい。その一言がその人に大変なその心に、有り難いものを感じられたんですね。私その事をはっきりちょっと、(?)させられましたけれども、ま例えて言うならば一年なら一年の刑がですね。
 あまりに見事なその、(ふくもぼえ、一目ぼれ?)にですまあ、ほとほと感心させられたんでしょう、それは見張りをしておられる人も、又はその所謂お上おかげ、御慈悲があるのです。特別の人には特別の、又恩というのがあるのです。そこん所を忘れたんですけれどもまあいうならば、一年服役しなければならないのが半年で済んだというおかげを受けられたんであります。勿論出てこられる時には、その人が二人見るような人物になっておられたというお話しを聞いた事がございます。
 今朝から私はしきりにその事を思うんです、御祈念中に。本当にあのお互いが本気で清まりたいという願いを(表さねば?)いけないですね。でないとですもう神様がね心も涼やかな心、それこそ金の鈴を打ち振るようなすがすがしい心でです。神様が氏子の真心を受け、あがのうて下さる事が出来んのです。ただおかげさえ頂けりゃあよかと、ただ一心に、神様に(御無礼?)のようにして、願いさえすりゃあいいと、お参りさえすりゃあいいと、お取次ぎ頂いときゃあもう安心というだけではいけんです。
 お取次ぎを頂いて、どうぞ今日も私の心の上に和らぎ賀ぶ心を与えて下さりませ、どうぞ清らか清まらせて下さりませと言う様な願いというものが、まず先でありまず中心でなからなければならないと。ですからその事この事を通してどうぞそれを清まる事のできる、清まる事の為の材料にしていかなければいけないと言う事。それは清めても清めても、清め尽くせますまい。どんなに清めても清めても、どんなに改まっても改まっても、もう次の、清まった時に下にはもう汚れがある事に気付きます。
 そうして私共の心がです、清められた上にも清められて行く内、改めた上にも改められていく内、磨きにも磨きに磨きに磨ききって行く内にです、その心というものが段々空しゅうなっていく無くなっていく。私はここん所が素晴らしいと思うですね信心は。ある方があるお願いをなさっておったら、神様からキャベツのお供えを頂かれた、(感話)にです。先生どう言う様な事でしょうかと。その方はお百姓さんです。そうですなあ信心とはそれなんですよ。
 キャベツの皮をはいで行く様に、自分っていうものを一枚一枚はいでいくのですよと、しかも決してそれがね、まあ剥いだ事を損にはならんって、剥いで行きゃそりゃいわゆる食べると言う事。いうならばおかげを受けると言う事にはなっていくというもの。そういう信心をさせて頂いてです、ね、一枚一枚自分というものは剥がれて行くし、いわば修行させて頂く時にです、剥ぐだけじゃあない磨くだけじゃあない、その磨いていくその事を神様がお喜び下さるから、ね、おかげは下さる。
 所謂それは捨てなければならんというのじゃあない、矢張り食べていかれると言う事。それがです、段々段々一枚が二枚、三枚というふうに、そのキャベツの皮を剥ぐように、よく申しますね、同じ事を繰り返しておるとです、もうそれこそらんきょの皮むきのごたるっち。いうならばキャベツの皮むきのごとあろうけれどもです、ね、けれども矢張り芯に近づいていきおる事だきゃあ間違いないのです。毎日毎日この通りに同じ事、お参りを繰り返させて頂いて。
 まあ言うならば下手な私のお話、下手なと言う事は大変ご無礼ですけれど、私自身見えた頂かれたっちいいおりますけれど、その真意というものは是はもう神様の心だ。ね、そういうなら尊いものをです、毎日こう頂かせて頂きながら、自分というものは変わり映えがせんなあと、いつになったら自分におかげが頂けれるだろうかと思うほどに、自分の心にへきえきするものを感じるです。こりゃ私共も自身それを感じます。
 けれどもですね矢張り一年前と今日の私というものを思うてみる時に、自分のその上に近づいていっておる私と言う様に気付く時があります。去年はこん位の事であげん腹ん立ちおったけど、今年はおかげでねそれが腹ん立つどころか御礼が申し上げれるようになっておる自分を発見する時です、信心ちゃあ有り難いなあと分かるのですよ。椛目にご縁を頂く前は、この事がこんなにも心配になりおったのに、その事自体は一つも変わっていないのだけれども。
 心の中にそれが心配でも不安でもない、それを御神意として有り難く頂けておる自分というものに気付かせて頂く時にです、もう信心ちゃあ有り難いなあと言う事になるです。ね、ですからそこん所を頂けていきおらなければだめなんです。去年の私も今日の私も同じというなら、椛目通いの値打ちは一つもあっていないのです。そう言う様にして私が、所謂段々一枚一枚はがれて行く様に綺麗になっていく、いわゆる清まっていくのです。ね、そしてそれが空しゅうなるなくなる。
 そういう時じゃないでしょうかね、昨日から頂いておるように、ね、無力の世界に住み替えられるのは。そこをお互い楽しみに信心させてもらわにゃいけません。人間の世界はこの世は苦の世、ここは苦の世苦の世界だと、ね、悟ったからポーンと極楽の世界に行けるというのじゃあない。それを本当に体現させてもらう、悟らせてもらう為にです、ここん所の日々が必要なのです。
 この世は決して苦しい世界でも暗い世界でもないのだ、光明の世界なのだ、光の世界なんだと、有り難い勿体ない世界なのだと、ね、そういう心が開けてくるにしたがって、もう本当に形の上においても勿体ない事ではある、人間関係の上にも有り難いものばっかりが生まれてくる。天地の親神様は氏子可愛い、いや氏子にやらねばおかんと言う様な、様々なものにもそういう心が開けてくれば、もう恵まれなければならない、いわば仕組みになっておる。天地の中には。
 まあこげんも有り難か有り難か、こげん勿体ない事はなかというならです、お金に難儀をしておるとか、所謂とか人間関係にぐずぐずいうておるというならです、あなたの有り難かはほんなもんじゃあないと言う事になるのです。ね、もうこの有り難いというものにはですね、いわゆる教祖様はそこん所、真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなりと仰るようにです、もう形の上においても、心の上に頂けたら形の上に繋がらなければうそなんだ。おかげというのはです、ね。
 いうならば心の影なのだから。(?)はずはない。お互いが様々な窮屈な思いをする事が御座います。ね、恥ずかしい思いをする事が有ります。苦しい思いをする事が御座います。もう本当に腹の立つような思いをする事が御座いますけれども、そういう様々なそういう問題がです、そう言う事柄を通してです、そこん所をじっとこう、辛抱させて頂く、金光様にお縋りさせて頂く、そう言う様な私はおかげを蒙らせてもらう時に、私共の心が、おのずと清まって行く時ではなかろうかと。必ず刑務所行きしなければ心が清まらないというのじゃあない。ね。
 成程椛目通いをするようになったら、みんなが、ね、二人見るようになられたと言う様にです、私は変わらなければ値打ちはないです。それこそ変わり映えのしない人がある。ね、私そこん所を願い続け思い続ける事ようするに要である。神様が本当に涼やかな心を持って、私共の願いを一つ一つ、こう合点して聞いて下さる。それを一つ一つ私共守る以上におかげにして現して下さる。
 そういう願いを私共が持つならばまず、神様の願いである所の氏子信心して、とこう言うて下さる、その氏子信心してと言う所を、本気で頂かなければいけないです。氏子信心してと言う事は、どう言う事かと。私は愈々清まらせて頂く事に精進する事だと、それを私は、とにかく限りなく美しゅうなろうやと、美しゅうなりましょうやと、こういう椛目の合言葉のように申します。
 不思議なんです。どういう問題が起こってもです、両方が本気で限りなく美しゅうなりましょうやという、言う事になったら問題が解決するのですから。いや相手はそうではなくても私一人がです、あっこの事を持って私が清まろう、この事をもって私が美しゅうなろうというと、その問題が解決するから不思議なんです。それぐらいある。問題じゃなくなってくるのです。そういう私はその、清まり方というものを本気で体得させてもろうて、ね、神様にお喜びいただける心おかげ、ね。
 神様がいわゆる(にがい食わしながら?)渡して下さるおかげとは違って、それこそ涼やかな心を持ってお受け下さる、涼やかな心を持って改まり、いわゆる喜んでです、私共におかげを下さる事のできれるような、おかげを私共が愈々清らな心でという、その清まった心をもって、それを受けてみていかなければならない。どうして今度私その事をしきりに感じるんです。今日皆さん今日から只今からです、ね、一切が清まらせて頂く材料であると頂かせてもろうたらです、ね。
 確かにその事を神様が喜んでくださる。成程その事によって清まった、その事によって改まったけど、また次には同じ様なものがあるんです。けれどもそれは確かにおかげにだけはなっていっとる。それは食されるです食べられるです。それが繰り返されていく所に、ね、昨日から申しております、本当に人間の世界から(弥勒の?)世界に住み替えて行く様なおかげが頂けれるのだと。ね、そういう清まらせて頂く所の心をもってしなければです、通り抜けられない事があるのです。
 本気で清まろうという気持ちでおらなければです。いわゆる神様のお試しに合格する事ができない、パスする事が出来ない事があるのです。普通の人間的な考えでは。ね、そこん所を一つ、分からせて貰い、体験させてもろうてです、ね、自分の本当に限りなく美しゅうなりたいという心で御祈念をさせて頂いておる、その御祈念のすべてがです、神様の涼やかな心でお受け取り下さっておる事が感じられるような、そういう御祈念をさせていただきたい。そういう一途でありたいと思うですね。
   どうぞ。